湊町さかた観光ガイドテキストブック 「ぐるっと、酒田 まちしるべ」

第五章 寺町界隈
6.酒田山(しゅでんざん) 龍厳寺

歴史
 真言宗智山派のお寺です。開山は文明年間、中興の祖は宥遍上人です。宮野浦から移転しました。慶長六年(1601年)現在地に移転、2回の火災に遭います。現在のご住職は44代目~45代目です。

仁王門
 龍厳寺の山門は、江戸時代の文政五年(1822)に建てられ、仁王様が安置されました。仁王様は一対の金剛力士で阿形を金剛像、吽形を力士像といいます。山門は俗地と聖地の結界をあらわします。現在の仁王様は大正時代に寄進されたもので、仁王様の下駄もあります。体の割りに頭の大きなスタイルです。龍厳寺の仁王様は火災を予見したという伝説があります。仁王様が西を向いていて、おかしいと思って元通りにしても、翌日また西を向いていたそうです。近所の人が不思議に思い、うかがいを立てると、「西から火事が起こるから注意しなさい」というお告げだったのです。数日後、西のほうで火災がありましたが、龍厳寺の近くの人は備えていたので無事だったということです。

南北朝時代の板碑
 境内に大変古い板碑があります。摩滅がひどく碑文を読むことができませんが、阿弥陀三尊の種子(しゅじ)が刻まれています。石の素材から南北朝時代と推定されています。この板碑は龍厳寺と生石の延命寺と鷹尾山にあり、彼岸の中日の太陽の動きからこの三つの場所にあるとされています。天道信仰によるものだそうです。

地蔵菩薩
 六地蔵の隣、右端のお地蔵さんは後光が表されています。珍しい形のものです。

千部塔
 半円形の塔が台座の上にある簡単なものです。

真言宗酒田山談議所
談議所 昔、龍厳寺は法泉院と称していました。元禄二年(1698)仁和寺より正式に酒田談義所の称を与えられ、御室仁和寺の末寺となりました。宝暦元年(1751)焼失し、後に本間家三代光丘が再建、寛政十年(1799)焼失し、藩主酒井家の寄付により建立。これ程の寄進は、龍厳寺が亀ヶ崎の祈願所だったからで、江戸時代は酒田寺院の筆頭でした。天和三年の巡検使調書には、庄内三郡を通じ談義所は酒田山のみと記してあります。「真言宗酒田山談義所」は、学問・修行が中心で、位牌は限られた方だけでした。酒田で門前は、下日枝神社の鳥居前と浄福寺唐門前、龍厳寺仁王門前だけでした。
大名駕籠 龍厳寺は亀ヶ崎城のご祈祷所と鵜渡川原の観音寺も兼務し、殿様と新年の挨拶を交わせる唯一の寺でした。年始登城が許され、「龍厳寺参上、開門」で開門、二の丸門まで大名駕籠を通され、黒書院において杯頂戴・御返杯の格式を持っていました。お屠蘇の返杯をするとドラが鳴ったとか、龍厳寺住職の登城の後でないと他の開門がなかったとか云われています。大名駕籠は酒田資料館に寄贈したものもあり、ここにあるものはレプリカです。竹の支えは当時の物で、かつぎ棒は元来よりも短く4間の長さです。住職の体格に合わせ駕籠を作り変えていたようで、改築の際、何個か発見されました。

芭蕉二百年忌の句会
 伊佐湖南は龍厳寺38世住職で、俳諧と横笛を嗜みました。日和山に「夏山のかげひたしけり最上川」の句碑があります。ここで、淡交社主催の芭蕉二百年忌の句会が開かれています。光の入らない本堂でしたので、色が鮮やかに残っています。

本堂改修
 10年程前、本堂の改修工事を行いました。軒下、天井裏から大名駕籠や傘福が見つかりましたが、傷みがひどく処分しました。天井絵は新しいもので、改修工事で寄進頂いた方のお名前を入れて作りました。

双幅「両界曼荼羅図」
 寺伝である『龍嚴寺縁起』に記されている寺宝でしたが、永らく不明でした。それを現在の住職が発見しました。文明四年(1472)以前のものと思われています。2008年に、本間美術館で開催された「酒田の仏画~暮らしに根付く信仰展」に出品し、そのご縁で東北芸術工科大学で修復してくれました。掛けることも出来なかった双幅がきれいになって帰って来ました。

木花開耶姫
 本堂の立派な龍と刀の彫り物は、故事熟語から作りました。お祀りしている仏様は、正面向かって右が弘法大師、真言宗の教祖です。左は興教大師真言宗智山派の教祖です。正面に大日如来、左が不動明王。右にお釈迦様、手前に木花開耶姫が祀られています。日枝神社が酒田の鎮守社となる慶長8年 (1603)以前、ご鎮守社は旧今町のはずれにあった浅間神社でした。1601年に酒田町が上杉と最上の戦いの兵火で焼かれた時に焼失し、御本尊の木花開耶姫は龍厳寺に移されました。木瓜の紋は京都の仁和寺の紋と同じです。室町時代の作と見られ高さ18㎝、総丈40㎝です。

昇天さん
 奥の長押の上の黒い祠に昇天(歓喜天)がお祀りされています。象が二頭重なり合う秘仏で、霊験が強く、利益もさることながら恐ろしい神として畏怖されてきました。非道な人間には縁を結ばないし、勤行は一生怠ってはいけないとされます。勤行を一日も休まず一生続ける覚悟がないので、御住職さんは歓喜天の供養をせず、お祀りをしています。富貴、子宝、婦人病に御利益があり、昔は台町の遊廓の女性達がお参りにきていました。ぶら下がった玉飾りは重ならないように吊されています。1日と15日に必ず二股大根を供えます。天上は雨漏りによる破損がひどく、来年から2年かけて修復をする予定です。

お釈迦様
 お釈迦様は、摩耶夫人の右脇から誕生し直ぐに7歩き、右手で天を左手で地を指し、「天上天下唯我独尊」と言ったとされます。天上天下に唯一つの、誰とも代わることのできない人間として、しかも何一つ加える必要もなく、このままに尊いという意味だそうです。祠にはその姿が祀られています。

観音菩薩
 昇天さんのお堂の両脇にある箱には、向かって右側にお地蔵様、左側に観音様が入っています。お地蔵様は箱が合っていませんので開けっ放しですが、左側の観音様は大変古い物です。胴体の部分が700年から800年程前のものだそうです。その為、空気に触れないように箱に入れています。

* 聞き取り協力/平成25年10月23日 龍厳寺住職*

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